流通経済大学 三宅雪嶺 記念資料館
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その時代と人生

 
シンボル展示

三宅家略系図

シンボル展示

『真善美日本人』
明治中期ナショナリズムの代表的な古典。真は学術上の国粋主義、善は正義で、産業・軍事面での国粋主義、美を芸術上の国粋主義と位置づけ、日本固有の価値の顕現を通じた世界文明への寄与という道を見出そうとしている。雪嶺の国粋主義は世界における日本という発想から出発した、インターナショナリズムと結合するナショナリズムであった。

『偽悪醜日本人』

『真善美日本人』と対をなす雪嶺の代表的著作、日本人の欠点を痛烈に批判してその修正を試みようとしている。偽は学術界の病弊、つまり学者が商人風になったり、御雇い外国人の質が悪くなったのを指摘している。また、悪は“奸商”を痛烈に罵倒し、日本の近代化の矛盾を突き、さらに醜では欧米のさるまねに狂奔する風潮を批判している。


明治の青年
三宅雪嶺は、誕生から14歳まで金沢に居住した。時代は、幕末の混乱から明治時代を迎え、文明開化を謳歌し始めていた。雪嶺は、この金沢時代に学問と出会い、親元を離れて学問と向き合うようになった。

その後、16歳で東京開成学校予科に入学し、東京大学文学部哲学科に進んだ。雪嶺は、教室よりも図書館での学問を好み、様々な書物を乱読した。また、新聞・雑誌への投稿を始め、言論人としての第一歩を印した。

大学を卒業して就職したものの、役所仕事に対する不満から辞職した。在野人としての雪嶺の活動がここに開始された。

愛知英語学校時代の同級生との集合写真(雪嶺、前列左から2人目)(『報知新聞』北陸版「名士の少年時代」昭和4年10月9日付)


思想史全般に興味を持っていた雪嶺は、文部省編輯局に入局後、『日本仏教史』のみならず、『基督教小史』も編集した


思想と言論に生きる
明治20年(1887)に官職を捨てた雪嶺は、一生を在野で生きていくと決めた。私学で教鞭を執るとともに言論活動を始め、翌年には同人十二名と政教社を設立し、機関誌『日本人』を創刊して国粋主義を主張した。

私生活においては田辺花圃と結婚し、田辺家を通じて新たな交友関係が広がっていった。

その後も言論活動を通じて幅広い交友関係を築き、社会主義者たちとの接点も生まれた。また、文筆活動も旺盛に続けており、独自の哲学を発表するなど、華やかな時期を迎えることとなった。

雪嶺の私生活

中島歌子の歌塾・萩の舎時代の花圃
三宅花圃(かほ)(1863-1943)
小説家・随筆家・歌人。本名は龍子。元幕臣で後の元老院議官・田辺太一の長女として出生し、中島歌子の歌塾・萩の舎などで学ぶ。萩の舎の同門、樋口一葉の文壇デビューのきっかけを作った。著作に『藪の鶯』『花の趣味』などがある。
国民像の構想

『日本人』創刊号(明治21年)表紙

『日本及日本人』表紙

社会への関心


雪嶺自身が撮影した足尾鉱毒問題の舞台、谷中村の写真


言論界の老大家として
大正12年(1923)の関東大震災後、経営に関する齟齬から雪嶺は政教社を離脱した。そして女婿である中野正剛と我観社を設立し、『我観』(のち『東大陸(とうたいりく)』)を刊行する。そこでは「同時代観」を掲載し、自己の生存した時代を歴史的に考察している。

その一方で、「自分を語る」「雪嶺自伝」といった自己の足跡を執筆している。これは雪嶺哲学を前提とし、「同時代観」によって歴史的・客観的に背景を描いた上で、自らの生涯を主観的に主張したと捉えることができる。
同時代を記録する


史論史学の名著『同時代史』全六巻


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