露月池の春秋 -流通経済大学の発祥-

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露月池の春秋 -流通経済大学の発祥-

1971年頃のキャンパス

流通経済大学は昭和40年(1965年)4月に開学した。所在地は茨城県龍ケ崎市、現在の龍ケ崎キャンパスである。入学定員は200名、経済学部経済学科だけのごく小規模な単科大学であった。
大学の設置者は学校法人日通学園である。わが国の学校教育法は、その第2条第1項において、学校を設置することができるのは、国と地方公共団体及び私立学校法第3条に規定する学校法人のみ、と定めているが、日通学園はこの法律にいう私立学校の設置を目的として設立された法人である。即ち学校法人日通学園は流通経済大学を創設するために昭和40年2月4日に設立された。ただし、この法人に大学設立のための資金を寄附したのは財団法人小運送協会(平成6年「財団法人利用運送振興会」と改称)である。

小運送協会とは、小運送及びこれに関連する業務に従事する者の知識技能の向上や福祉の増進を図ることを目的につくられた文字通り小運送業界の財団で、昭和13年、日本通運株式会社が中心になってつくったものである。同協会は昭和15年4月から、23年までの間、業界の幹部養成のために運送業務の実務教習を行う修業年限1年の教育機関、小運送教習所を経営してきたが、戦後は、業界の従業員の子弟のために学生寮を経営するなどに事業を縮小し、実態は日本通運の内部組織に近かった。
その小運送協会が大学設立の出捐者になったのは、日本通運が営利企業であったが故である。
いうまでもなく、私立大学経営という事業は営利を目的とするものではない。端的にいえば儲けとは無縁の存在である。営利企業にとっては、利益として会社に還元される当てのない出金は会社の存立目的に反し、株主総会で問題視される恐れがある。そこで考え出されたのが小運送協会を媒介とする方法であった。
つまり小運送協会は通運事業の発展と業界の福祉の増進を目的とする財団であるから日本通運は先ず小運送協会に寄附をし、同協会はその資金を大学設立のために出捐して学校法人日通学園ができるという手順である。もとより小運送協会の寄附行為(根本規則)には大学の設置を事業内容とする条項はなかった。そこで同協会は大学の設立が可能なように「学校教育助成」についての条項を寄附行為に加えて改正手続をとり、昭和39年3月9日に運輸大臣(現在の国土交通大臣)の認可を得ている。
学園?流通経済大学の実質的な出捐者である。日本通運の内部で大学設立の具体策が議せられるようになったのは昭和37年から38年にかけてであった。その頃の日本通運はわが国でも屈指の巨大企業で、在籍従業員数は優に7万を越えていた。ただ、この時期は日本通運にとって重大な転換期であった。即ち、モータリゼーションと幹線道路の発達によって鉄道の貨物輸送がしだいに減少し、道路輸送が増加の一途を辿りつつあった。
もともと日本通運は昭和12年10月1日「日本通運株式会社法」という法律に基づいてつくられた半官半民の特殊会社であった。明治末期から戦後にかけての日本の陸上貨物輸送は鉄道が主で、その鉄道輸送を補完する形で送り主の手元から出発駅まで、到着駅から送り主まで、貨物を輸送する集荷、積み下ろし、配送などの業務を担うのが小運送業、つまり通運業である。従って大運送たる鉄道と小運送は車の両輪のごとく両々相まって初めて、運送が完成するのである。
それ程に重要な小運送業ではあるが、個々の業務はさしたる元手がなくとも、極言すれば天秤棒1本でも開業が可能であった。そのために群小業者が乱立して荷主の争奪競争が激化し、輸送業務の公共性が損なわれるといった弊害があらわになってきた。こうした状況のもと、昭和に入ってからのわが国は満州事変から日中戦争へとしだいに戦時体制に向い、統制経済の強化につれて小運送問題も根本的な解決を迫られるようになってきた。その結果、業界を再編して国家の統制下におく「小運送業法」と「日本通運株式会社法」が制定され、日本通運による企業統合が行われたのである。
しかし、敗戦によって日本通運は国策会社としての性格を完全に払拭することになった。昭和24年12月には定款を改め、25年2月には「日本通運株式会社法」が廃止された。かくて日本通運は社名はそのままながら中味は純然たる一般企業になったのである。
民営化された日本通運は、当然他社との自由競争にさらされることになったが、戦後経済の混迷をよく乗り越えて昭和30年代の半ばには、本来の通運に加えて路線トラックや倉庫業などの関連事業、さらに保険、不動産、観光開発などの分野にも進出し、「輸送のデパート」と称される総合物流企業として群を抜く存在になっていた。ただしこの時期、先にも触れたように日本通運は非常に難しい局面に遭遇していたのである。先の記述と重複するが、モータリゼーションと幹線道路の発達は、鉄道輸送の減少と道路輸送の増加をもたらし、日本通運でも国鉄とつながる通運事業の利益はしだいに減少して、この時期既にこの部門は赤字転落寸前だったのである。そしてこれと反比例するように、国鉄と競合する道路運送の比重は段々に高まって、やがてこれがその赤字補填の役回りを担うことになる。従って、歴史的な経緯によって国鉄との関係は保ちつつ、また社名に「通運」を残しこそすれ、総合物流企業への脱皮と、経営の多角化と国際化はこの時期における日本通運の不可避の方向であった。まさにこの時期、流通、とりわけ物的流通の研究の進展と人材の養成は日本経済の新たな展開にとって喫緊の課題だったのである。
以上のような陸上貨物輸送の画期的な転換期を背景に、流通経済大学の設立構想を率先して打ち上げたのは日本通運の当時の社長、福島敏行氏であった。
福島氏は、自伝「通運五十年」(昭和42年10月刊行)で、日本通運の業務研究所の開設などに携わるうちに教育に大きな情熱と関心を抱くようになったとのスタンスで、大学設立について次のように述べている。
「そしてさらに、長期的な一連の発想として出てきたのが、流通経済大学の創設です。業研などの確立で社内従業員の再教育が普及したら、こんどは再教育などというものではなくて、入社するまでに教育した青年を採用すれば、従業員のレベルはさらに向上する理屈です。流通経済大学を出た人が社会に進んで10年たてば、相当の地位になります。その人たちが日本通運に寄せる関心、流通経済に寄せる関心は、そこで必ず1つの効果を生むはずです。今日?明日の効果、あるいは、単に1企業としてだけの効果ではないかもしれない。しかし、それでいいのです。そのとき、内外呼応した流通革新が一段と花を開くに違いありません。むずかしいことは申せませんが、私の大学創設の思想はそういうことでした」(253頁)。
要するに福島社長の大学構想のねらいは、人材育成を通じた流通革新の実現と大学設立を通じての社会的貢献ということである。かくて福島氏は学校法人日通学園の初代理事長にも就いた。
学校法人の寄附行為認可書と、流通経済大学設置認可書は、昭和40年1月25日で文部大臣からそれぞれ設置認可を得るのであるが、申請段階の審査で、流通経済大学ならではの問題点の指摘があったと聞いているので、それをここに書き留めておく。
即ち、それは大学と企業との関係についてであった。企業がスポンサーになることは大学に財政的な安定をもたらすが、その反面、大学に対して企業が容喙する危険がある。つまり「大学の自治」と「学問の自由」をいかに保証するか、という問題が設置審議会側の関心事だったらしい。これに対して日本通運は、運営と人事権との一切を大学自身に一任する考えであり、学則において教授会の権利を保障していると対応したとのことである。
何はともあれ、流通経済大学の創設は特に異常、異質のものではない。強いていえば、わが国には営利企業の出捐による大学設立は例がなかった。企業が出捐して大学を設立したかのように見えても実際はオーナー個人の財産からの出捐である場合が殆どであった。その点日本通運の構想は画期的であり、企業自体の大学設立という先例を開いたことになる。それだけに法律的には丁寧に、敢えていえば回りくどい手法をとらざるを得なかったのである。いずれにしても設立に至るまでの経緯を顧みるとき、福島氏の強いリーダーシップを認めざるを得ない。
このように順調に船出した流通経済大学ではあったが、開学3年目の昭和43年、予期せぬ大難に見舞われた。
日本通運の社長であり、学校法人日通学園の理事長でもあった福島氏が、いわゆる日通事件という疑獄事件の中心人物として刑事責任を問われ、大企業のトップとして経営の社会的信用を失墜させた責は大きいとの理由で実刑判決を受けることになったのである。いうまでもなく、この事件は大学とは全く関わりのないものであったが、何せ現職の理事長であり、敏腕の経営者として社会的に信頼の篤かった人物である。大学としても大いに困惑した。もとより日本通運の受けたダメージは並大抵でなかった。
事件後の福島氏は、昭和58年3月、不遇のうちにひっそりとこの世を去っている。享年88歳であった。まさに陸上貨物輸送の歴史的な転換期の荒波に苛まれ果てたかのような晩期であった。
福島氏の弁護人を務めた中村信敏弁護士は検事上りの練達の法曹で、私にとっては同窓のごく親しい先輩であったが、中村氏も、日通事件についてはその本質と背景をもっと組織的に検証すべきであると考えていたようであった。
因に、流通経済大学という校名は数多の候補名の中から、福島氏が選んで決めたものである。

大学の正門の坂をのぼると左手前方の樹間に見える水面(みなも)が露月池である。伝聞によると露月池の歴史は江戸時代の延宝年間(1672年-1681年)に遡るらしい。今から330年余も前のことである。今も龍ケ崎市根町にある古刹、天台宗般若院の当時の住職、朗(ろう)月(げつ)晃順和尚(1680年没)と同寺の客僧であった順幸和尚(1672年没)が力を合わせて露月池の開削に尽くしたと伝えられている。当時、寛文10年(1670年)頃から延宝初年にかけて洪水?気候不順などで慢性的な不作が続き、延宝3年には飢餓が全国に及んでいる。幕府は大飢餓という最悪の条件下で小農経営を自立?安定させつつ年貢を増徴するという方策をとり、延宝検地を行っている。般若院の二人の僧が身を挺して灌漑用地の掘削に挑んだのはそんな時代であった。池の名に朗月とあるのは朗月晃順の名に因んでのものであろう。
それがいつ、どうして露月池とよばれるようになったのかについてはよくわからない。ただ、昭和40年、流通経済大学の開学の頃には、地元の人たちはもう一様に露月池と呼んでいた。龍ケ崎にとっては新入りである私たち教職員も、学生たちも、ごく自然に露月池と呼んだ。また、校門の坂の左手の台地は大文字山と呼ばれていた。勿論、その呼称にも私たちはすぐに馴染んだが、呼び名の謂れについては誰からも聞いた覚えはない。おそらく大文字の火で知られる京都東山の大文字山に倣ったものであろうと受けとめている。何はともあれ、大文字山の懐に抱かれるように静かに佇む露月池は、開学の頃この学園に学んだ者にとっては、心にしっかり焼きついている風景だと思う。

その頃の大文字山には2棟の学生寮と学生食堂があった。初年度の入学者は241名、学生は全国各都道府県から集っていたので学寮を希望するものが少なくなかったが、収容能力の関係で初年度入寮者は98名、他の百数十名は町の下宿利用者と自宅通学者とに二分された。そしてその割合と傾向は学寮が閉鎖する昭和60年まで続いている。
ところで、私が流通経済大学に勤務するようになったのは昭和40年、開学と同時であった。教養課程の法学と専門科目の民法総則?物権法の講義を初年度から担当した。学年進行につれて債権総論?各論、3年?4年のゼミナールも受け持った。それまでもほぼ10年、大学教育の経験はあったが、学生数の少ない新設大学ははじめてである。しかも大企業がバックアップするという私学である。そんなわけで最初は少しとまどったが、馴れるにつれてこの大学ならではの妙味を覚えるようになった。まず何よりも自由な雰囲気がよかった。先輩教授たちも、同僚の教員諸兄もいずれ劣らぬリベラリストであった。また日本通運も大学の自由と自治を弁えて一定の節度を持してくれているようであった。
問題はこの大学に対する学生たちの思いである。彼らにどうやって自信と誇りをもたせ、この大学に学ぶことの意味を覚らせるかであった。私たち若手の教師陣もそれぞれに心を砕いたつもりであるが如何にも重い課題であった。
私の研究室にもよく学生が訪ねてきた。はじめは講義に関連した質問であったが、そのうちに人生論や学問論、或いは時の政治情勢などについて、彼らの関心はつきるところがなった。中には、自分の大学選択は間違っていた、他大学に変わりたいという相談もあった。時間をかけて親身になって話し合ったことを今もよく憶えている。
その頃の私は、よく大文字山のクラブハウスに宿泊した。ゼミの学生たちとのコンパに出たり、寮の学生たちと遅くまで語り合ったりする機会が多くなったからである。

町でのコンパの帰途、いつも学寮の脇道を微醺を帯びてクラブハウスに向ったのだが、その時の露月池の表情が忘れられない。澄んだ空のもと、水面に写る月影がいつも心に安らぎを与えてくれたからである。
大学の場合、卒業生が出ることをもって完成に至ったというが、流通経済大学では、昭和44年3月、草創期の苦難に耐えて第1回の卒業生を送り出している。彼らは今はもう還暦を迎え、第二の職務に就いている者も少なくないが、大学卒業以来の彼らの軌跡は評価に値する。私はこのことについてつい先日(平成20年2月14日)、一ツ橋記念講堂で行われた日本私立学校振興?共済事業団主催のパネルディスカッション「新時代の魅力あふれる私学の創造」にパネリストとして参加し、流通経済大学の強みと特色について触れた。以下に当日のプレゼンテーション資料の一部を引用する。「物流の看板を掲げ、立地の所為もあって、流経大は開設時から受験生の少ない学校であった。しかし、全国各地から物流志向の学生が集まり、学力の高い学生も少なくなかった。その頃の学生達はもう還暦に達するが、日本通運やヤマト運輸などで高いポストについている。その限りでは特色の鮮明な実学主義の私学を創設した甲斐があったということである。」
当日、私は最後に「中小私学活性化への道」と題して、大学における教員評価制度の導入と確立について述べ、教員のやる気と責任感こそ大学教育の原点であることを強調した。また、教育基本法(平成18年12月22日施行)第8条が「私学の公の性質と国等の助成の必要性」を定めていることについて言及し、わが国の高等教育における教育研究の質の向上のために、私立大学に対する経常費補助の増額と学納金の適正化は焦眉の急であると力説した。確かに教育基本法第8条は私学の新時代を示唆するものであるが、道は多難である。
学生たちが夢と誇りをもてる教育環境、それが私たち私学教師の望みでもある。

佐伯 弘治

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